DONZOKO

秘境へようこそ

SNSを握り拳でアンインストールして外に出ろ

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こないだ「電波のない時代にいきたい」云々いってる記事を書いたが、SNSが鬱陶しかったからである。

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自分はSNSの使い方が下手だ。どう下手なのか簡単に言うと、結構依存しやすい割に「あー下らない投稿ばっかしてしまう」「他の人に暇人とか思われてないかな」「そもそも時間の無駄じゃね?」とか色々考えてしまうあたり。割り切って使うことが出来ない。よく言う“SNS疲れ”状態になってしまい、使い方について考えたうえでSNSのアカウントは消した。結果、とても清々しい。

 

(SNSについてごちゃごちゃ書いていきますが、ここでは所謂「趣味垢」とか「ビジネス垢」とかではなく、実際の知り合い同士でフォローし合っているアカウントを想定してます)

 

ことの発端は依存を自覚したことだ。スマホを起動して、インスタやらツイッターやらを開く。タイムラインを一通り確認して、ホーム画面に戻る。で、1秒前に確認したはずなのにまたアプリを開いてしまう。思い当たる人も結構いるのではないだろうか。無意識のうちにアプリを開いてしまうあの現象。「あーこりゃ依存だなあ」と思った。Twitterだと一日10ツイートくらい、インスタだとストーリーを3~4本ほど。相対的に見てめちゃくちゃ投稿数が多いというわけでもないと思うが、個人的には依存だと判断するには十分だった。今まで特に何の抵抗もなく使っていたSNSだったが、依存を自覚してから「ちょっと距離置いたほうがいいかも?」と思うようになった。

 

医学博士・廣中直行氏によると、スマホ依存には3つの要因があるという。手軽であること・身体感覚にマッチすること・感覚への刺激が得られること。そこにオペラント条件付けやら、脳の報酬系やらが色々関わってくるようだ。要因のうち、スマホ依存の中でもSNS依存に深く関わってくるのは手軽さと刺激であると思う。

 

手軽さについては言うまでもないだろう。スマホは手軽というか、最早現代の生活様式の中心にあるといっていい。電車に乗っている人々を見ればその普及率が分かる。「お前がそんなこと書かんでもスマホが手軽なことくらい分かっとるわい、というか「言うまでもない」とか言いながらしっかり手軽さについて言及してるではないか」と、これを見た誰かが呟くであろうくらいに普及している。刺激については、「いいね」とかコメントを貰うことで脳の「報酬系」という部位が刺激され、ドーパミンが放出されるということらしい。そしてそれに快感を覚え、「もっともっと」という状態になってしまうんだそうな。

 

そんなプロセスを経て俺もSNS依存になったんだろう。朝起きて、布団から出ないままずっとスマホをいじる。無意識にタイムラインを何往復もする。さっさと布団から出て、ベランダで深呼吸して、コーヒーでも淹れて、読みかけの本を読んだりすればいいのに、ファッキンSNSで30分以上のタイムをキルしてしまう。依存についての本を読むと、脳科学の知見から分析しているパターンが多い。それを踏まえてSNSの仕組みを見ると、本当によくできていると思わされる。いいねシステムはすごい。タップして「あんたのこの投稿、いいね」と伝える機能を付けただけだが、いいねが来た途端に我々の脳みそからドバーッとドーパミンが溢れ出し、「いいねもっとちょうだい!もっともっと!」と半狂乱状態に陥る。インスタのストーリーも恐ろしい。数秒間の動画を投稿するだけならいいのだが、厄介なのは既読機能的なものがついており、フォロワーの誰が動画を見たかが分かるようになっていることだ。「誰と誰がみた!むふぅ」って感じでまたドーパミンが垂れ流される。平静という名の精神の海が、ドーパミンで汚染されまくりである。いや、ドーパミンが悪い奴というわけではないが、何事も過剰になるのはいけない。

 

そして、誰がいいねをしただの動画を見ただのが気になって落ち着かない。何をするにしてもスマホが気になって集中できない、という事態になる。自分はSNS依存なんて滑稽なことにはならない、と思っていたが、しっかり依存してしまった。

 

急に情けなくなる。いい歳こいた男が、画面の向こう側の世界に振り回されてていいのかと。もっと精神的に自立せんかと。外を歩いてるときにやおらインスタを起動して「クソ寒い」とかストーリーあげてる場合か、クソ寒いのはお前の頭ん中だとか色々思うようになった。以下はSNS脱却に向けて、落ち窪んだ精神で考えた自分なりのSNSについての考えである。全然ユニークじゃないし、ありきたりな考えばかりに着地してしまったが、自分と同じくSNSにうんざりしてしまっている人への一助となれば幸いだ。

 

まず、諸悪の根源といってもいい「いいね」について。「いいね」というのは、人による人に対しての人類史上最も薄っぺらい評価であるように思う。SNS疲れでよく挙がる例として、「いいねがこないと不安になる」とか「尊敬している人からいいねが来ると嬉しい」なんかよく聞く話だ。そうやって人は自分に向けられた「いいね」のことを特別に思ってしまうが、実際そうでないことは、自分が他人の投稿に「いいね」するときを考えれば分かる。今日一日、誰のどんな投稿に「いいね」したか、覚えてる?と聞かれて答えられる人は、ほとんどいないのではなかろうか。今日は覚えていても、昨日、三日前となると全く覚えていなくても何ら不思議ではない。要は、他人に対しての「いいね」なんか覚えてもいない、どうでもいいことなのだ。「いいと思ったからいいねした」、ただそれだけであり、「とりあえずフォロワーの投稿には全部いいねする」って人も少なくはないだろう。そうやって他人から投げかけられた特別な感情も何もこもっていない「いいね」を大事そうに抱えて、一喜一憂して現実を疎かにすることは、実に下らないことのように思える。スクリーンを介さない、目の前にいる友達や家族をないがしろにしてまで獲得する価値が、「いいね」にはあるだろうか。快感が一瞬で終わるくらいペラペラな割に、下手すれば悩みの原因に成り得る下らない評価を得るために腐心するくらいなら、旅行先の風景を目に焼き付けたいし、友達との会話は目を見て楽しみたいし、肉には慎重に胡椒をかけたい。

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「でもSNSやめちゃうと情報とか入ってこないし、孤独になりそうで怖い」という理由で、やめたくて中々決心がつかないことも多いと思う。そもそも、SNSをやっていて入ってくる情報ってどんなものがあるだろうか。自分が大学生だから大学生界隈のインスタを例にとるが、大概は友達がその友達(知らない人)と遊んでたり、飲んでたり、お洒落な飯を食いに行ってたり、である。入ってこなくても何ら困らん情報ばっかである。まぁ、例えば紅葉スポットにでかけるとして、どのくらいの紅葉具合かハッシュタグを使って調べれば、最新の写真がでてくるから、そういう情報はありがたいけども。そういう場合は情報収集用に誰もフォローしないアカウントを作ればいい。現実で知り合いの人たちの投稿というのは得てして、役に立たんといっちゃ何だが、実際役に立たない場合が多い。また、自分自身が同じように役に立たん投稿を連発しているのも自覚して、「俺のも下らん投稿とか思われてるんだろうな」とかが気になったのもやめた理由だったりする。「SNSという舞台に役に立つ・立たないの価値観を持ち込むのがそもそもナンセンスだ」と批判をくらいそうだが、そういう性格なので仕方がない。その点ブログは役に立たない記事を書いても、興味がある人しか見に来ないから気が楽で良い。

 

孤独感に関しては、むしろSNS上でそういう投稿を見ることで孤独感を覚えるようになっているケースが多いのではないだろうか。みんな楽しそうーみたいな。幸い自分の場合は己の承認欲求との戦いのみであり、孤独とかそういう方向には陥らなかった。とはいえ確かに、それまで毎日のようにやっていたSNSがなくなると、急にひとり野原に放り出された気分になったりするかもしれない。だが、SNS上の関係が切れただけでなくなってしまう関係なんか、別にそんなに大事にしなくていいんじゃないかと思う。200人のフォロワーがいたとして、実際よく会う機会がある人は多くて30~40人ってとこじゃなかろうか。ちなみに自分は8人とかそのくらいになる気がする。よく会わなくても中高の同級生で大切な友達とかいるだろうが、大切な関係ならSNSなんか通さなくてもずっと続くはずだ。「でもこれから仲良くなりたい人とかもいるし・・・」という意見もあるかもしれないが、SNSで「いいね」を送ったら仲良くなれるわけでもないだろう。多少の外堀は埋めることが出来るかもしれないが、結局表面上のやり取りに終わってしまうように思える。人と仲良くなれるのは実際に会って話すときだけだ。飯にでも誘ったらいい。誘っといて相手そっちのけでストーリーあげて誰が見たかずっとスマホ気にしてる、とかは最悪だからやめよう。自分もやったことがあるから反省のつもりで書くが、わざわざ時間割いて会ってくれている人をダシにして、自分の承認欲求を満たすのはすごく失礼なことだと思うのだ。

 

あとは何というか、別に孤独は悪いことではないと思う。考え事をしたり、ゆっくり本を読んだり、感動的な映画を観て泣いたりするのは、一人でないと難しい。もっとお一人様を楽しんだらいかがでしょう。人と会って楽しく過ごすのはとてもいいことだが、人に依存してしまうのは考え物だ。最近メンヘラ男とかいうのが増えてきているらしいが、こうなっちゃ厳しいな、と思う。彼女にフラれて何も手につかなくなり、精神療養のために実家に帰るだとか、毎日泣きながら抗議の電話をするだとか、挙句の果てに彼女のマンション前に張り込むだとか。一人に慣れていないとこうなってしまうのかと。まぁ、人間ずっと孤独なのはしんどいし、大切な人から関係を打ち切られる辛さは分かるが、人に執着しすぎると自分が大変な目に遭うし、周りの人間さえ不幸にする。ということを、僕はメンヘラ男に巻き込まれる形で実害として被った経験がある。以来、メンヘラ男は目の敵にしている。彼女にフラれて何か月も落ち込んでるやつをみると引っぱたきたくなる。元気だせオラ!(激怒). というわけで、話がやや逸れたが、人間関係に執着しすぎるとロクなことにならないという話だ。「また何かの機会にお会いしましょう」くらいがスッキリしていて気持ちいいと思う。結局、その辺は個人の匙加減ではあるのだが。

 

スマホも本来はただの道具であったはずだ。音楽を聴いたり、動画をみたり、地図機能をつかったり。しかしその手軽さとSNSの力が相まって、スクリーンの上の世界があたかも自分の本当の居場所のような気にさせる。携帯パラレルワールドみたいなものだ。今はまだ生活していく上でSNSが必須なわけではない。しかし、今後5Gなんかが発達して、もっと多様な機能を持ったSNSが登場、人々のライフスタイルがSNSなしには成り立たなくなるという未来も遠くないように思える。そうなったとき、SNSという巨大な精神の檻に人間は飲み込まれずにいられるだろうか。ITの進化は著しいどころではない。明日のことなんか分からない。願わくば自分で考えて行動できる人間でありたいが、そうはいかないかもしれない。ひょっとしたらもうこの思考も、Googleの社員に「こいつにこんなサイトとこんな動画とこんな音楽を薦めておこう、そしたら〇年後にはこんな問題意識を持つはずだ」ってな感じであらかじめプログラムされたものかもしれない。そんな妄想をしていると、何もかもをかなぐり捨てて、熱帯雨林の奥地で全裸になって「アヒョーーー!」とか絶叫しながら狩猟採集生活を送りたくなる。たぶん三日後に死ぬけど。

 

長くなってしまったが、家でロクに見もしないストーリーを連打して流し見してるくらいなら、窓を開けて深呼吸でもしたほうがいいという話である。スクリーンに釘付けになるより、外に出たほうがよっぽど刺激的だ。たまにはスマホを持たないで出かけると楽しい。近所の神社にとんでもない巨木があるのを発見したり、隠れ家的な飯屋を発見したり、この道は何度通っても面白いなあみたいなこと考えながら歩いてみよう。そのうち一人が楽しくなる。そして誰かと会ったときの話のネタにもなる。楽しくSNSを利用できているなら何も問題はない。結局自分で納得していればなんでもいいのである。

 

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